ブログは人様に読んでもらいたいと思って書く時と、思ったことをただアウトプットしておきたいとメモ書きのように使う時があります。というより、本当は伝えたいのですが、消化できていないことですが。昨日、一昨日は後者でした。ですので読んで頂いている方にはつまらない内容だと思います、すいません。それでももう少し書き留めておきたいことがありまして、今日も同様で失礼します。
(あ、独り言の時はである調にさせて頂きます。)
さて、先日あえてドビュッシーの名を出したのは、いくつかドビュッシーから連想したことがあったから。一つはドビュッシーのモダンな響きから。ドビュッシーが一般的にモダンと言えるかというと一概にそうではないが、少なくともいわゆるクラシック音楽(バッハやヘンデルに代表されるバロック、モーツァルトやベートーベンに代表される古典派、ショパンに代表されるロマン派まで。ドビュッシーは印象派として近現代として区別される。)と比較すれば、新鮮な響きを持つ楽曲が多い。ちなみにドビュッシーとよく比較される同じフランスの印象派(とされる)の作曲家にラヴェルがおり、僕はそちらのほうがさらに好きだったのだが。
話は変わって器の話へ。
僕がはじめに民藝に興味を持つきっかけとなったものは、中井窯の緑と黒の掛け分け皿である。見た目上のインパクトもあり、かつ伝統的な物なのに新鮮、ということで興味を抱いた。よく分からないで使っているが、「モダン」だなと思った。それからドビュッシーの楽曲にモダンな響きを感じると同様に、この伝統的な流れの延長線上にありつつ、新鮮さをもつ物に対し、僕は「モダン」と勝手に捉えている。(言葉が足りていないのだけど、ぱっと出てこないからいったんそうしておく。多分西洋の匂いを感じさせる、ということは加える必要があると思う。ちなみに、音楽ではドビュッシーは東洋の音楽に影響を受けている。東西ミックスがモダンか、と考えたくなるが、余計だったかな?)しかし、現代の暮らしに合う器としてそれは重要であるはずにも関わらず、行き過ぎれば悪い意味で作家的になったり、物自体の力も弱くなりがちなため、僕の中でも曖昧な状態にある。そこでそのあたりをもう少し考えてみたいと思うのである。
今日はここまで。