簡素な暮らし 第10回

自然を受け入れ、なるべく自然に委ねる暮らし。
余計なものを増やさずになるべく減らす暮らし。
日々温かみのある手仕事の実用品を使う暮らし。

そんな暮らしの試みをご紹介してきた連載もいつの間にか第10回となりました。

今回は今更ながら読み終えた柳宗悦の著書「工芸の道」の中で印象に残った言葉をご紹介しながら、手仕事のつくり手と使い手をつなぐ「つなぎ手」としての思いを綴ります。

この数年、手仕事に関わっていて実感するのは「数年前は当たり前にあったけれど今はつくれない」というものがたくさんあることです。それは機械ではなく人の手でつくられる民藝・手仕事の品にとっての宿命かもしれません。また、大量生産が当たり前の現代において、やはり手仕事の品は徐々に値上がりする傾向にあります。作家物や芸術品に比べれば廉価と言えますが、ものによっては庶民的と言えない値段のものもあります。

仕事のなかでそういった事に直面し、手仕事が失われていく現状を「文化の環境問題である」と言い、行動し続けた久野恵一さんの思いに一層共感するようになりました。そしてつなぎ手はものを売って広めるだけではなく、美しく健やかな文化と社会を取り戻すために一石を投じる役割も果たしていかなければ、と思うようになりました。

「工芸の道」の中で柳宗悦はこう語っています。

私達は過ぎた時代への理解の中に、如何に未来を生むべきかの準備をも整えねばならぬ。
美しい古作品を見て、私達が幸福を感じたように、私達からもかかる幸福を未来へ贈らねばならぬ。
(中略)
正しく過去を見るということには、正しく未来を見るとの意味がなければならぬ。
かかる任務を感ずることなく単なる鑑賞に陥るなら、私はそれを怠惰なる鑑賞と呼ぼう。
それは一片の安逸な享楽に過ぎない。
(中略)
美を識ることは美を生むことへと高められねばならぬ。
もし美を味わうに止まって、美を創ることに進まないなら、それは創られた美に就いても真に味わうところがないからである。
未来への愛を含まない過去への愛は、過去への正しい愛とは云えぬ。

確かにそうであるなぁ、と胸に突き刺さる言葉でした。

民藝は骨董とは異なり、「今つくることができるものである」と久野恵一さんは言っていました。民藝は「民衆がつくる実用品」ですから今使えるのが当然なのですが、現代では何もしなければ途絶えてしまうものがたくさんあるのです。かつての日本のように民藝・手仕事の品を皆で作り、使う社会に戻ることはできないでしょうから、残していく術を考えなければなりません。美術的工芸(鑑賞品)としてではなく、民衆的工芸(実用品)として残す、というところが重要だと思います。

moyaisがこれからものを売る以外にどのような役割を果たしていけるか。今年はじっくり妄想するつもりです。

簡素な暮らし 第10回” への1件のフィードバック

  1. 私も昨日~~ショッピングモールの雑貨屋さんを徘徊しながら食器を眺め器たちをどうにかしなければと思っていました。25年前に焼き物をやめた男より・・・・

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