先日ブログのタイトルを変えてみました。
“月ハ映リキ水ヲ染メデ”
柳宗悦が短歌や俳句よりさらに凝縮させた字数で自らの心境を表した「心偈(こころうた)」から選んだ言葉です。
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縁があると、月は水にその姿を映す。だがどんなに明らかに映ったとて、水は染まらぬ。また縁で雲に覆われると、何も残らぬ。水に宿る月は映像で、ものを生じもせず、また滅しもせぬ。映ったとて、水にものは加わらず、去ったとて、水からものは減ぜぬ。水に映っても、水は汚れもせず、また浄くもならぬ。
ここを「空(くう)」と仏者はいうのである。映るものは縁に従う。縁であるから、映る姿に自性(じしょう)はない。経はこれを「無我」という。これが分かると、凡ての二元は、そのままで、吾々を縛る力を失う。縛られずば「不二」に生きる。
仏者はよくこの真理を語るのに鏡の譬(たと)えを用いた。不二を見つめたいためである。「色即是空、空即是色」という言葉も、ここを見てのことである。
南無阿弥陀仏―付・心偈より抜粋
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縁があるから存在が見える。互いの存在を染めないからこそ美しい。ものにしても、人にしても、欲があると「こんな風に見せたい」とか「こんな人であってほしい」等々自分の欲や他人への期待を表現してしまいがちです。柳宗悦が民藝=民衆的工藝に美しさを見たのは、それが欲や自我から生まれたものではなく、風土や時間の流れ、繰り返しの作業といった無我の所産である故ではないでしょうか。
人間関係においても月と水のようにいられたら、月が映った一瞬を大切にできたら、と思います。縁がなければ水に映らなかった月。何も求めず、あるがままに。互いを縛ることから解放されたとき、その関係性は純粋に生き続けるのかもしれません。
誰かに何かを伝えるための文章というより、ただそこに在るものを見て、感じたことを無心に綴っていきたい。そんな思いもありブログのタイトルにこの言葉を選びました。